これ、最近買った本なのですが、めちゃくちゃ面白い!帯にもあるように「データ」を元にサッカーを様々な角度から見ています。僕こういうの大好きです。
まだ1章しか読んでいませんが、ちょこっとだけ紹介します。
1章「得点後・失点後に分かるチームの性格」
セレッソ大阪が得点、或いは失点した直後の10分以内に得点、或いは失点したのは、
- 得点 → 得点:12点(ホーム5点、アウェイ7点)
- 得点 → 失点:5点(ホーム5点)
- 失点 → 得点:8点(ホーム7点、アウェイ1点)
- 失点 → 失点:0点
となりました。得点 → 得点の12点はリーグトップ、失点 → 得点の8点はリーグトップタイ、連続失点をしなかったのはセレッソだけです。筆者の猪狩さんは「ホームでは獰猛」と書いてありました(笑)
こんな感じの本です。データ、すなわち「数字」は余計(かどうかは分かりませんが)な情報を削ぎ落とし、主観性を排除し、事実のみを提供し、他のものと比較でき、誰にとっても分かりやすくなるのが良いところ。(逆にその数字・そういった傾向が現れた背景・原因は解釈が必要ですが、それもまた面白い。)一気に読破してしまうそうです。
あ、これは2010年シーズンのデータです。2011年シーズンのセレッソのデータはExcelファイルで僕が個人的に作りました。こんな感じ↓
ここからダウンロードできます。これを元に2011年シーズンの振返りを新シーズンが始まるまでにこのブログでしていきたいと思います。
こちらもけっこう前に読了していたのですが…今回も気になった箇所のメモです。
「1980's-2010's 欧州名将系統図」
「バルサの超攻撃革命 グアルディオラ:3-4-3とセスク獲得の謎」(pp. 16-22)
狙いは、ボールの周りに常に数的優位を作ること。そして、ボール保持者と守備者が1対1になる状況を相手に決して作らせないこと。最終的に1対1を仕掛けざるを得ないならば、1番巧い選手(今でいうメッシ)のところでその場面を用意する。
「チェルシー復権を託された青年ビラスボアス:33歳の異端児は何者か」(pp. 28-32)
2002年にポルト監督に就任したモウリーニョのアシスタントコーチとして招集され、その後もチェルシー、インテルとモウリーニョの右腕(アシスタントコーチ)として活躍する。
ところが、ビラスボアスも現場で仕事をしたいと思うようになりモウリーニョに打診するも、受け入れられず。ここから2人の関係は悪化し、2人と親交の深い記者ヌーノ・ルス氏によれば「いまじゃ口もきかなくなってしまった」らしい。
1994年(16歳):ポルトの当時監督ロブソンに戦術の改善点などを書いて送った手紙で認められ、スタッフとして情報分析や通訳を任される。この時のチーフアシスタントがモウリーニョだった。
1995年(17歳):英国立スポーツセンターへ留学。スコットランドサッカー協会での指導者講習を経て、UEFAのC級ライセンスを取得。
2000年(22歳):英国領ヴァージン諸島の代表監督に就任。通算2戦2敗で、18ヶ月で辞任。
「マンUの生き字引が語るファーガソン:革命なき4半世紀」(pp. 36-40)
1986年にファーガソンがマンUに来て以来、彼はほぼ5年のサイクルでチームの改造を行なってきた。今年で任期26年目なので、現在のユナイテッドは5期目という事になる。
最初の改造は1989年。後の1992−1993年シーズンで26年ぶりにリーグ優勝(プレミアリーグ初代王者)をする。このチームの最後のピースとなったのがエリック・カントナ。
第2期の改造は1995年。カントナを除く主力を放出。ベッカム、ギグス、スコールズ、ニッキー・バット、ネビルの若手が台頭し、1998−1999年シーズンにイングランドのクラブとしては初めて3冠(プレミアリーグ、FAカップ、CL)を達成。
第3の改造。GKピーター・シュマイケルの後釜としてバルテズなど試したが上手くいかず。またベロンも獲得するが上手くチームにフィットせず。ファン・ニステルローイの獲得は成功だったが、ファーガソンは納得しなかったらしい。本当は60歳になれば引退するつもりだったが、3番目のチームが安定せずに監督を続行する。
第4期のチームでは、ベッカムを放出する代わりにC・ロナウドを獲得。翌年にはルーニー、そしてファン・デル・サールを獲得。2006−2007年シーズンにリーグ優勝し、翌年にはCL優勝。
ファーガソンがこのように長期にわたってコンスタントに結果を残しているもう1つの理由として、彼の戦術面での順応の速さがある。4-4-2から、カントナ時代の「10番」のいるサッカー、ロナウドを擁した4-2-3-1、ゼロトップへと常に戦術を変化させてきた。これはファーガソンが志向する戦術・システムが先行してそれに合った選手を獲るのではなく、「素材」を重視する。その素材が育ったうえで、自然と生まれてくるチーム内の化学反応にシステムや戦術を合わせる。
「マンチーニ:500億円軍団と挑む至上の夢」(pp. 42-43)
パトリック・ビエラは2010年1月にマンチェスター・シティ入りし、引退後の今シーズンからは育成に携わっている。
「ドルトムントは再び輝けるか:クロップ:王者を襲う"後遺症"に克て」(pp. 48-49)
過去10シーズンの中で、連覇はバイエルン・ミュンヘンが一度達成しただけ。それ以外は、毎シーズンチャンピオンチームは入れ替わっている。
→序盤は苦しみましたが、何だかんだ言って12/31の時点は首位のバイエルン・ミュンヘンと勝ち点差3の2位に付けてます。
「ビエルサ:愛すべき変人のぶれない流儀」(pp. 56-61)
25歳で現役引退後、ブエノスアイレスで大学チームを率いたが、あまりの練習量に選手が来なくなったらしい。
ビエルサの練習はプレーを止めるため、練習時間はリーガで1番長い。
チリ代表を率いた時も初戦に敗れ、W杯南米予選もアルゼンチンに負けてスタートしている。ビエルサは時間をかけて結果を出すタイプ。
→1月4日の時点で9位のようです。
「欧州最先端の潮流を探る:クライフ、サッキからグアルディオラ、モウリーニョまで」(pp. 62-65)
モウリーニョ:「戦術自体が問われる時代は終わった。戦術そのものではなく、戦術を実現するためのトレーニングで監督の差がつくんだ」
現代サッカーの練習法の源流を遡ると、2人の人物に行き着く。オランダのクライフとイタリアのアリゴ・サッキだ。大雑把に言えば、前者が攻撃の練習法を、後者が守備の練習法を劇的に進化された。
現在でもバルセロナは、練習と言えばほぼロンド(もしくはその変形版)しかやらない。人数やタッチ数の制限を変え、時にはハーフコートの広さでパス回しを行う。彼らにとって、試合そのものが大きなロンドのようなものだ。
ファン・ハールはパスサッカーを効率良くできるように戦術をシステム化し、ポジションに応じた約束事を細かく決め、チームとしての連動性を自動化しようとした。
一方でサッキ(アマチュア上がり)は相手がボールを持った状態(=守備)を前提にしたサッカーを取り組んだ。組織的に相手からボールを奪う「ゾーンプレス」の事である。サッキが画期的だったのは、難解なゾーンプレスを実現するための練習法をステップに分けてマニュアル化したこと。こうして誰もが理解できる形にしたおかげで、サッキの練習法は恐るべき速さでイタリア国内の若手監督に吸収されていった。
最近では選手のコンディション面に注目して練習法を決める「ピリオダイゼーション」という新概念も出てきた。選手の状態に併せて綿密に練習量をコントロールして体への負荷を減らし、常に100%の能力を引き出すことを目指す。いい状態で練習した方がパフォーマンスが上がるという考え方である。その第一人者はオランダ人のレイモンド・フェルハイエン。
いつものように気になったところを書き残しておきます(1ヶ月以上前に発売された雑誌ですが…)。
「自由と逆境から得たもの:大分で培われた"感覚"という名の武器」
五輪代表・A代表での活躍を受けて「なぜそういったプレーができるのか?」という質問に対してキヨは「よく分からないです。俺っていつも感覚というか本能でプレーしてるんですよ。それって練習で身につくものではないし、自分の持っているものじゃないですか。だから説明つかないし、『あのプレーはどういう意図でやったんですか?』って聞かれても、感覚でやったとしか言いようがないんです。たまに調子が良すぎて、自分自身のプレーに驚くこともありますからね」と答えている。
小4で父が監督を務める明治北SSCに入団。飛び級で6年生チームでプレーし、全日本少年サッカー大会に出場。中学では、九州屈指の強豪カティオーラFCに入団する。しかし、体の小ささや膝の病気、熾烈なレギュラー争いで徐々にサッカーを楽しめなくなり、中2の初夏に選手の個性を重視して育成することを目指す大分トリニータU-15に入団。
大分U-15ではFWとしてプレー。大分U-15は学年が多岐に渡り、レベルの差もあった。こういう環境では普通、レベルの高い選手が低い選手を軽視し個人プレーに偏りがちだが、カティオーラでの挫折の経験があるキヨはチームを引っ張った。
中3でU-18に飛び級。そこでフィジカルの壁にぶつかる。練習では、1000mを3分30秒で走るのを7本などをこなした。また守備も課題だったので複数のポジションを経験させられる。
高2の冬にトップチームに飛び級するも、2007年2月のグアムキャンプで左足第5中足骨を骨折し、1年を棒に振った。その間にフィジカル強化の為に筋トレに励み、12kgも体重を増やした。
小学6年の時、全日本少年サッカー大会の準々決勝で審判に「てめえ、殺すぞ」と暴言を吐き、退場処分を受けた。
クラブユース選手権の出発前に胃腸炎を患い、2週間隔離されている。また、Jユースカップの神戸戦でゴールを決めて喜んで、振り向きざまに相手と交錯して足を骨折している。
「U-17W杯ベスト8監督:魅惑のパスサッカーを生んだ吉武博文の育成哲学。」
「重要なのは、自分たちで問題を見つけ、それを自分たちで解決できるようになること。一言で言ったら、自立・自律ですね」
技術指導はかなり具体的。→「この状況では、くるぶしの真下にボールを当てるのではなく、つま先から5cmの範囲に当てた方がいい」
試合の中で、選手のポジションは当たり前のように入れ替わる。その時、選手が果たすべき役割は、それが誰であろうと、今どこにいるかによって決まる。人に役割を与えるのではなく、ポジションに役割を与える。
「リーガ・エスパニョーラへの道:バレンシア日本校では何を教えているのか。」
バレンシア日本校の校長である中谷吉男は2009年にセレッソ大阪U-18の監督して日本クラブユース選手権で優勝した経験がある。
中谷は30歳で関テレを退社し、2004年から3シーズンに渡ってマジョルカ、ヘタフェなどの1部リーグの下部組織で指導者を務めた。その後、2006年にUEFA最高位の指導資格を取得。
「小さな少年の大きな挑戦:久保建英君はなぜ10歳でバルサに行けたのか?」
川崎フロンターレU-12監督の高﨑康嗣によると、U-12世代の育成で大事な要素は「選手がサッカーの本質を理解し、楽しむこと」で、選手たちには「どうゴールを奪うか考えること」を要求する。目的がゴールではなく判断のないプレーには指摘を入れる。
「日本代表キャプテン研究:彼らはいかにしてリーダーとなったのか。」
宮本:「ジーコ監督がクロアチア戦の前に必死になってミーティングしているのに、あくびをしている選手もいた」
ガチャピン氏の著書。内容的には薄かったので一気に読めるはずでしたが、最近は読書の時間があまり取れないのが悩みであります。
日本の国歌って他の国の国歌と比べても盛り上がりに欠けて暗い印象があるから、国際試合の前に聞いてどんな気分になるのか疑問に思ってたけど、ガチャピンはこんな感想を。「海外で国歌を聞くのは、いいものだ。気持ちが引き締まり、日本という国を改めて強く意識させれれる。そして、日本人として「戦うんだ」という気持ちがふつふつと湧いてくる」(p.55)
2010W杯南アフリカ大会、日本の初戦カメルーン戦の試合会場ブルームフォンテーンには時計がなかったらしい。(pp.63-64)
息子の楓仁くん(4歳)もサッカーをしているけど、右利きなのが少し残念らしい。(p.92)
南アフリカ大会の後にジェノアから給与額も提示され、オファーがあったらしい。残るは移籍金の問題だけという所まで行ったが、同時期にジェノアが他の選手も獲得して資金が足りなくなって、実現しなかったらしい。(p.134)
初耳。そうなのか?「W杯優勝国のサッカーは、その後のサッカーのトレンドになると言われている。」(p.143)
韓国・中国・オーストラリアと日本の4カ国でアジア版UEFAカップを開くことを提案している。理由は、リーグ戦で10位前後のチームは、シーズン後半は優勝争いもなく、モチベーションに欠けるので。実現可能性はどの程度か分からへんけど、確かにJリーグのレベルを上げるには良いかも。(pp.153-154)
吹田FWの平井を「毎試合、結構、シュートを外す。一本の重みを理解していない。チャンスは無限にあるものだと思っている。」と名指しで厳しく言ってる(笑) (p.166)
ザッケローニ監督は急激に代表チームに変化をもたらすことはなかったと書いてある。唯一、以前と変わったのはウォームアップの仕方。岡田前監督やトルシエはウォームアップの最初からボールを使っていたらしいけど、ザッケローニ監督は、腹筋・背筋・腕立て伏せなどのエクササイズから入る。体を動かす前に、刺激を入れるためと怪我の防止のためらしい。(pp.200-201)
全体と通して、目新しい事はあまり書いてなかった。そもそも、初刊の年月日を見ても、ガチャピン氏はあんなに多忙やのに本一冊を書き上げる時間はあったんやろうか疑問。特に心に響くものもなかった。
遠藤 保仁(2011)『信頼する力:ジャパン躍進の真実と課題』東京:角川oneテーマ21
審判目線 面白くてクセになるサッカー観戦術
を読んだので、メモ・感想を残しておきます。
W杯などで導入されているレフェリーの無線システムは電波法の問題で日本では使えないらしい。(p.73)
2004年に設立されたJFAレフェリーカレッジでは、判定に説得力を持たすための「身体表現」を養うために講義に演劇を入れた。(p.107)
日本サッカー界におけるファール基準と世界基準で特に大きな隔たりがあるのは、ホールディング、遅延行為、そしてファールスローの3つ。(p.132)
約400万ドルを掛けて、主にW杯審判候補者の審査・強化のために2008年から2年半にわたり審判援助プログラム(Refereeing Assistance Programme = RAP)が実施された。プログラムは、①審判技術の指導・強化のための「テクニカル」、②体力・走力などを向上するのための「フィジカル」、③怪我の予防・ケアの「メディカル」、④心理面をサポートする「メンタル」、そして⑤気功や太極拳によって試合中の立ち振る舞いや選手マネジメント能力を高めることを目指す「エナジー・パフォーマンス」から成る。(pp.178-179)
2010年W杯南アフリカ大会における判定(pp.179-181):
- 得点に関する判定は160回。そのうち155回(正しくゴールと認めたのが142回、正しくゴールと認めなかったのが13回)が正しく判定されていた。(96.88%)
- 枠内シュートは663本。そのうち5本がゴールラインを越えたか否か判断が難しかったが、そのうち4回は正しく判定された。正しく判定されなかった1本が、あのイングランドのランパードが決勝トーナメント1回戦のドイツ戦で放った幻のシュート。
- ペナルティーエリア内でファウルか否か判断が求められたのは65回。そのうち15回がファウルで、全て正しくPKと判定された。ノーファウルと判断された50回のうち45回は正しかったが、5回はPKと判定すべきだった。
- 1試合あたりの警告数は3.82、退場数は0.27。※2006年ドイツ大会は、警告数4.80、退場数0.44。2010年J1は警告数3.25、退場数0.15。
- 大会中の負傷のうち16%がファイルプレーによるもの。※2006年ドイツ大会は40%、2002年日韓大会は37%。
2010年W杯南アフリカ大会における審判(p.183):
- 主審の1試合の平均走行距離は、前半5.21km、後半4.97km、合計10.18km。
- 副審の1試合の平均走行距離は、前半2.79km、後半2.68km、合計5.47km。
- 大会中、審判に対して怪我予防などの為に行ったトリートメントの回数は265回。※2006年ドイツ大会は199回。
- 同じく大会中、審判が受けたマッサージの回数は489回。※2006年ドイツ大会は266回。
- その結果、審判の負傷はドイツ大会の14回(試合中6回、練習中8回)から4回(試合中2回、練習中2回)に減った。
日本人審判で初めてW杯に出たのは丸山義行で1970年メキシコ大会。日本人主審として初めてW杯で笛を吹いたのは1986年メキシコ大会・1990年イタリア大会の高田静夫。そして1998年フランス大会の岡田正義、2002年日韓大会の上川徹、2006年ドイツ大会の上川徹・廣嶋禎数と続く。(pp.206-208)
やはりプレーを文字を読んで理解してそのプレー場面を想像するより、映像があった方が分かりやすいし、何より面白い。次回、同じような著書を出すならDVD付きなどいいかもと思った。最後の方には、W杯審判に上り詰めるまでのプロセスが書いてあって興味深かった。かなり競争は厳しいみたい。それとレビューは関東近郊開催の試合が多いから、他の地方も増やしてほしい。
松崎 康弘(2011)『審判目線:面白くてクセになるサッカー観戦術』東京:講談社

